Se connecter転校二日目の朝、久瀬湊人は目覚ましが鳴るより少し早く目を開けた。
窓の外は、まだ薄く青い。夜と朝のあいだにあるような静かな色だった。布団の中でしばらく天井を見つめ、それから小さく息を吐く。
「……今日こそ、普通に」
昨日も言った気がする台詞だった。
しかも昨日は、その決意が見事なまでに空回りした。初日だから多少は仕方ないとはいえ、購買で立ち尽くし、隣の席の女子には何度も“変”と言われ、ついでに教室では“王子っぽい”などという、この上なく困る評価まで受けてしまった。
目立たない高校生活への道は、想像以上に険しい。
だが、まだ巻き返せるはずだ。二日目から地味に馴染んでいけばいい。昨日の転校生フィーバーさえ抜ければ、きっと周囲の熱も落ち着く。落ち着いてくれないと困る。
ベッドを出て、顔を洗い、制服に袖を通す。ネクタイを締める手は、意識しないとすぐ整いすぎる。少しだけ緩めようとしてみて、鏡の中の自分を見てやめた。似合わない。無理をしている感がすごい。
「普通って難しいな……」
誰に聞かせるでもなく呟く。
朝食を簡単に済ませ、家を出る。春の朝の空気はまだ少し冷たく、吐く息が完全には白くならないくらいの温度だった。通学路には同じ制服の生徒が点々と見え、二日目の湊人は昨日よりも少しだけ、学校へ向かう実感があった。
校門前に差しかかったところで、またしても反射的に道を譲りかけて、寸前で踏みとどまる。
危ない危ない。
普通の高校生は、毎回そんな丁寧な動きをしない。多分しない。少なくとも、昨日の自分のように“なんか雰囲気ある”認定を受けるほどにはしない。
今日は気をつけようと決めて、教室へ向かう。
廊下を歩きながら、湊人は昨日の隣席――柊坂真白のことを思い出していた。
口が悪い。目つきが鋭い。妙に噛みついてくる。
でも、購買では助けてくれたし、完全に嫌っているわけでもなさそうだった。というより、あれは嫌っているというより“放っておけないから腹が立つ”に近い空気だった気がする。
そういう相手は正直、苦手だ。
何を考えているのか分からない人より、分かりやすすぎる人の方が、時として対処に困る。
教室へ入ると、昨日ほどではないが、やはり数人分の視線が向いた。転校生への興味はまだ完全には消えていないらしい。湊人はそれに気づかないふりをして席へ向かう。
真白はすでに来ていた。
机に肘をつき、頬杖をつきながら、窓の外を見ている。朝日が横顔に当たっていて、少し不機嫌そうな顔立ちが妙に綺麗に見えた。
湊人が「おはよう」と声をかけると、真白はちらりとだけ視線を寄越した。
「……おはよう」
昨日の「別に」よりはだいぶ進歩している。
内心で少し驚いていると、真白の方が先に口を開いた。
「なに」
「え?」
「その、今の顔」
「顔、ですか」
「“思ったより返事してくれるんだ”みたいな顔してた」
見抜かれていた。
湊人は少し困って笑う。
「いえ、失礼しました」
「ほらそういうの」
「どういうのですか」
「すぐ謝るとこ。転校して二日目なのに、妙に完成してる感じ」
完成している、という表現は初めて聞いた。
だが、何となく分からなくもない。きっと真白の中では、湊人は“普通の男子高校生として雑に扱いづらい何か”なのだろう。
それはとても困る。
「できれば未完成でいたいんですが」
「意味わかんないこと言わないで」
真白は呆れたように言って、でもほんの少しだけ口元を緩めた。
それだけのやりとりなのに、昨日よりは確実に距離が縮まっているのを感じる。学校というのは、こうして少しずつ他人が“隣の人”になっていく場所なのかもしれない。
ホームルームが始まり、授業が進む。
数学、英語、現代文。転校直後は先生側も多少気を遣ってくれるらしく、露骨に当てられることはない。そこは助かったが、その代わり周囲の様子を観察する余裕があった。
二年三組は、思っていたより空気が軽い。
派手に騒ぐクラスというほどでもないが、静かすぎるわけでもない。何人か中心になる生徒がいて、そこに自然と会話が集まり、でも一人でいても浮きすぎない程度のゆるさもある。
要するに、かなり過ごしやすい部類だ。
……自分が変に目立たなければ、の話だが。
問題は三限と四限の間の短い休み時間に起きた。
前の席の男子が振り返ってきて、何気ない調子で言ったのだ。
「久瀬ってさ、今日昼どうすんの?」
「昼、ですか」
「学食? 購買? それとも弁当派?」
なぜその質問がそんなに怖く聞こえるのだろう。
昨日の購買戦線を思い出し、湊人は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……まだ決めていません」
「昨日、購買で固まってたもんな」
真白がぼそっと横から刺してきた。
しっかり見られていたらしい。しかも共有されている。
「固まっていたつもりはないのですが」
「いや固まってたでしょ。鹿みたいに」
「鹿」
「突然明るい場所に出た鹿」
「僕はあんなに目が丸くなっていましたか」
「なってた」
即答だった。
前の席の男子が吹き出す。つられて周囲の何人かも笑った。悪意のある笑いではない。むしろ場が和んだ感じすらある。だが、本人としては和んでほしくないところで和まれている。
「じゃあ今日、学食行く?」
「それとも購買リベンジ?」
「いや、購買リベンジって単語ある?」
軽いノリで会話が転がっていく。
ここで断ってもいいはずだ。だが、二日目にしてずっと距離を取っているのも不自然かもしれない。湊人が判断に迷っていると、真白が面倒そうにため息をついた。
「……学食にしとけば」
「え?」
「購買はまだアンタには早い」
「購買に熟練度が必要みたいな言い方ですね」
「必要でしょ。少なくともアンタには」
また笑いが起きる。
気づけば、昼は自然と学食へ行く流れになっていた。
◇
昼休みの学食は、購買ほどの戦場ではなかった。もちろん混んではいるが、列があり、順番があり、トレーがあり、少なくとも“奪い合い”ではない。それだけで湊人にはかなり文明的に思えた。
「そんなに安心する?」
トレーを取りながら真白が言う。
「はい。購買に比べれば、かなり」
「真顔で言うと面白いんだけど」
どうやら真面目に答えると笑われるらしい。理不尽だ。
学食のメニュー表の前に立って、湊人は少し迷った。
ラーメン、カレー、定食、うどん、日替わりランチ。どれもいわゆる“高校の学食”らしい値段と内容だ。安い。驚くほど安い。昨日からうっすら感じていたが、この学校の食事情は湊人の金銭感覚にじわじわとダメージを与えてくる。
「なに悩んでんの」
「いえ、その、皆さんは普段なにを」
「まさか値段で迷ってる?」
「……少しだけ」
「なによ少しだけって」
「想像以上にお手頃で」
「その言い方やめて」
まただ。
真白は本当に、湊人の言葉尻にいちいち引っかかる。
だが今日は昨日と違って、そこにわずかな楽しさが混ざっているように見えた。多分、本人は認めないだろうけれど。
「アンタ、もしかして普段もっと高いもの食べてるとか?」
「そんなことは」
言いかけて、湊人は危うく口をつぐんだ。
“そんなことは”の後に続く内容によっては、一瞬で地雷になる。
普段は専属の料理人が――などと言うわけにはいかない。
「……家庭の事情で、あまり外で食べる機会がなかったので、相場に疎いだけです」
ぎりぎりで嘘ではない言い方に着地する。
真白は少しだけ眉を上げた。
「ふうん。箱入りって感じ」
「箱入り、ですか」
「男子に使うのか知らないけど、そんな感じ」
それは否定しづらい。
結局、湊人は一番無難そうな日替わり定食にした。真白は迷いなく唐揚げ丼だ。席に着き、向かい合って食べ始める。
湊人は箸を持ち、いただきます、と小さく呟いてから食べた。
すると真白がじっとこちらを見ている。
「……なんですか」
「いや」
「はい」
「やっぱりアンタ、家でちゃんと躾けられてる感じする」
心臓が跳ねる。
「そう見えますか」
「見える。箸の持ち方も綺麗だし、食べ方も変に静かだし」
「変に、ですか」
「普通の男子ってもっと、がっつくでしょ。あ、でも別に気取ってる感じじゃないのが余計に変」
褒められているのか警戒されているのか、本当に分からない。
だが湊人にも一つだけ分かったことがある。
柊坂真白は、よく見ている。
人の服装や顔立ちではなく、仕草とか、間とか、そういうものを見ている。そして気づいた違和感を遠慮なく口に出す。
それは大変に厄介な資質だった。
「柊坂さんは」
「なに」
「よく人を見ていますね」
何気なく言ったつもりだった。
だが真白は一瞬だけ動きを止めた。唐揚げを持つ箸が空中で止まり、数秒の間が落ちる。
「……別に」
それから、そっけなくそう返す。
昨日の“別に”より、少しだけ低い声だった。
何かまずいことを言ったのかもしれない。湊人はそう思ったが、深入りするのも違う気がして、それ以上は聞かなかった。
昼食が終わる頃には、周囲の会話にも少しずつ混ざるようになっていた。前の席の男子――たしか日野と名乗っていた――が部活の話を振ってきたり、別の女子が「転校前の学校ってどんな感じ?」と聞いてきたりする。
湊人はそのたび、当たり障りのない範囲で答えた。人と会話するのが嫌いなわけではない。むしろ配信では毎日何万人と話している。ただ、学校という場では、その何倍も“普通らしさ”の調整が難しいだけだ。
そして、その難しさは午後に入ってさらに形を変えた。
◇
五限は体育だった。
転校二日目にして体育。かなり心の準備が要る。
男子はグラウンドで軽い球技。女子は校舎裏のコートで別メニューらしい。更衣室の空気、まだ名前を覚えきれていない同級生たちとの距離感、そして何より“どの程度動ける人間として振る舞うか”の問題がある。
目立たず、でも不自然に動けなさすぎず。
非常に難しい。
「久瀬って運動できんの?」
ジャージ姿で、日野が気軽に聞いてくる。
「得意ではないと思います」
これは本音だった。少なくとも“学校体育で求められる上手さ”とは、方向性が違う。走る、投げる、受ける、といった基本運動は一通りできるが、無邪気に全力を出して目立っていい立場でもない。
「思います、って。自分のことなのに曖昧だな」
「まあ見れば分かるだろ」
そう言って笑われる。
その程度ならまだいい。
問題は実際にボールを使い始めてからだった。
今日の種目はバレーボールの基礎。二人一組でのパス練習から始まる。教師が適当に組めと言ったため、湊人は近くにいた日野と組むことになった。
「んじゃ、軽くな」
「よろしくお願いします」
「そこまで丁寧じゃなくていいって」
言われながらボールが投げられる。
湊人はそれを受ける。問題なく受ける。軽く返す。問題なく返す。
一往復、二往復、三往復。
日野がじわじわと怪訝な顔になった。
「……あれ?」
「どうしました」
「いや、久瀬ってもっと運動ダメな感じかと思ってた」
「そうですか?」
「なんか、こう……購買で死にそうな顔してたから」
購買が基準にされている。
しかし言いたいことは分かる。昨日の印象からすれば、運動も不得手に見えるのかもしれない。
湊人は返す球の力を少しだけ弱めた。自然に、でも目立ちすぎないように。
「体力はあまりありませんよ」
「いや、それにしてはフォーム綺麗じゃね?」
余計なことに気づく人が多い。
バレー経験者ならともかく、そうでないなら気にしないでほしい。だが日野は深く追及する前に、「まあいいや、続けよう」と流してくれた。
助かった――と思ったのも束の間。
授業の最後に、教師が「じゃあせっかくだし転校生にも一本サーブ打ってもらうか」と言い出したのだ。
なぜ“せっかくだし”なのか分からない。
体育教師特有の謎のサービス精神は時として残酷だ。
「久瀬、軽くでいいから」
「はい……」
ボールを受け取る。周囲の視線がそれなりに集まる。ここで派手に失敗するのも違うし、綺麗に決めるのも違う。加減。大事なのは加減だ。
湊人は深く考えすぎた結果、むしろ自然に打った。
ぽん、と音がして、ボールはきれいな弧を描いて相手コートに入った。特別すごい一撃ではない。だが初心者が偶然入れたというより、“普通に慣れてる人のサーブ”だった。
「おお」
「入った」
「うまくね?」
微妙なざわめきが起きる。
しまった。
「いや、今のフォーム普通に綺麗だったぞ」
「久瀬、ほんとになんなんだよ」
知らない。こっちが聞きたい。
教師が「まあ初回ならこんなもんか」と流してくれたのが不幸中の幸いだった。だが授業が終わって教室へ戻る途中、女子側の列からも視線を感じた。
その先頭にいた真白が、ジャージ姿のままこちらをじっと見ている。
「……なにか」
「別に」
またその返しだ。
しかし今回は、その後に続きがあった。
「アンタってさ」
「はい」
「できなさそうなのに、たまに普通にやるよね」
「それは褒められているんでしょうか」
「知らない」
知らないと言いながら、真白はどこか納得いかない顔をしていた。
◇
放課後。
今日は昨日より少しだけ、帰るタイミングが遅くなった。日野たちに軽く話しかけられ、ノートのことや教室移動のことを確認していたら、自然と時間が過ぎていたのだ。
それ自体は、悪くない。
むしろ普通の学校生活としては歓迎すべきことなのだろう。だが、湊人の中では別の時計も動いている。夜の配信準備、事務所からの連絡確認、収録スケジュール。学校の“放課後”が、必ずしもそのまま自由時間ではない。
なるべく早く帰ろうと鞄を持ったところで、真白の声が飛んできた。
「ちょっと」
「はい」
「これ、職員室に持ってくの手伝って」
彼女の机の上には、プリントの束が二山積まれていた。どうやら学級委員かなにかの仕事らしい。
断る理由はなかった。
「分かりました」
そう言って、湊人は自然に軽い方ではなく重い方の束を持った。
真白がぴくりと眉を動かす。
「……普通、女子の前でそっち取るの」
「重い方が効率的かと」
「効率の話してないんだけど」
「すみません」
「だからすぐ謝るなって」
廊下を並んで歩く。
教室の喧騒が遠ざかるにつれて、校舎の夕方の音が近づいてくる。部活へ向かう足音、窓の外の運動部の声、どこかの教室から聞こえる吹奏楽の調律。
その中で、二人分の足音だけが近い。
「アンタ、今日も変だった」
職員室へ向かう途中、真白が突然言った。
「どの件でしょうか」
「全部」
「全部」
「学食で値段に戸惑うとこも、体育で中途半端にできるとこも、あと……」
「あと?」
「……なんか、いちいち人に気を遣いすぎるとこ」
最後だけ、少し声が小さかった。
湊人は言葉を選んだ。
「人に気を遣うのは、悪いことではないと思いますが」
「それはそうよ。でもアンタの場合、自然すぎるの」
「自然すぎる」
「うん。見せようとしてやってないでしょ」
「たぶん」
「だから余計に変」
真白はそこで足を止めた。ちょうど職員室の前だった。
プリントを受け取った教師が中へ戻っていくのを待ちながら、真白は壁に軽く寄りかかる。夕方の斜めの光が、彼女の髪の輪郭を少しだけ柔らかく見せていた。
「……ねえ」
「はい」
「アンタ、前の学校でどんな感じだったの」
質問は何気ないようで、少しだけ踏み込んでいた。
湊人は一瞬だけ答えに迷う。
どんな感じだったのか。正直に言えば、普通ではなかった。普通であろうとしてもなれない場所で、ずっと“そういうもの”として扱われてきた。
けれどそんな話を、ここでできるわけがない。
「静かに過ごしていました」
「絶対嘘」
即答された。
「嘘ではありません」
「じゃあ絶対“静かに過ごしてるつもりだった”でしょ」
それは、かなり近い。
湊人は思わず言葉に詰まり、真白はそれを見て少しだけ笑った。
「図星なんだ」
「……否定はしません」
「やっぱり」
その笑い方は、昨日までより柔らかかった。
噛みついてくるばかりだと思っていた隣席の女子が、今こうして少し楽しそうに自分を見ている。その変化が、湊人には少し不思議だった。
「柊坂さんは」
「なに」
「最初から、ずいぶん率直ですね」
「悪い?」
「いえ。ただ、遠慮がないなと」
「遠慮してほしいの?」
「どうでしょう。半々くらいで」
「なにそれ」
真白は吹き出すように笑った。
ほんの短い笑いだったのに、印象が変わる。普段のきつい顔立ちが少しほどけて、年相応の女の子に見えた。
その瞬間だった。
「真白ちゃーん、まだいたの?」
廊下の向こうから、女子が二人歩いてくる。真白の友人らしい。こちらを見るなり、にやにやした顔になった。
「え、なに、転校生と二人?」
「ちょっと、もしかしてもう仲良し?」
「違う」
「違います」
ぴったり声が揃った。
女子二人が余計に面白そうな顔をする。なぜ揃ってしまったのか。息が合ってしまったこと自体が、仲良さそうに見える材料ではないか。
真白はあからさまに不機嫌そうに眉を寄せた。
「プリント運んでただけ」
「へえー」
「でも柊坂が男子とこうしてるの珍しくない?」
「転校生くん、苦労してそう」
半分面白がられている。
湊人は曖昧に笑ってやり過ごしたが、真白の方は完全に面倒くさそうだった。友人たちに「じゃ、またあとで」と乱暴に言い残し、踵を返す。
廊下を戻りながら、真白はぼそっと言った。
「……余計なこと言うし」
「人気者なんですね」
「全然嬉しくない言い方やめて」
「そういうつもりでは」
「あるでしょ。ちょっと笑ってたし」
見抜かれている。
しかも今日は、朝よりずっと会話が軽い。口調は相変わらず刺々しいのに、会話そのものは昨日よりもずっと自然に続く。
教室へ戻る手前で、真白がふと足を止めた。
「アンタ、今日帰ったらまたなんか忙しいの」
「え?」
「昨日もさっさと帰ったし。今日もそんな感じだったから」
そこを見られていたか、と湊人は内心でひやりとした。
「……少し、やることがありまして」
「ふうん」
問い詰めるような声ではない。だが、試されている感じはある。
配信です、とは当然言えない。だからといって、曖昧すぎる言い方も怪しまれる。
「家の都合で」
結局、最も便利で、最も不便な言葉を使う。
真白は一瞬だけ目を細めた。
「家の都合、ね」
「はい」
「……まあ、いいけど」
いい、と言いつつ、明らかに納得はしていなかった。
それでもそれ以上踏み込んでこないあたり、彼女なりの線引きがあるのだろう。そこには少しだけ救われる。
教室へ戻って荷物を持ち、今度こそ本当に帰る時、真白が何気ない調子で言った。
「明日、購買チャレンジする?」
「チャレンジ、なんですね」
「どうせ今のままだと一生たまごサンドしか買えないでしょ」
「たまごサンドは好きですが」
「そういう話してない。で、するのしないの」
これはつまり、付き合ってくれるということだろう。
言い方はひどいが、内容は親切だ。
湊人は小さく笑った。
「……ご指導いただけるなら」
その瞬間、真白は露骨に顔をしかめた。
「その言い方、ほんとやめて」
「すみません」
「ほらまた!」
教室の出口で、二人して同時に立ち止まる。
そしてなぜか、少しだけ笑ってしまった。
今の自分たちは、昨日より確実に隣席らしい会話をしている。たった二日なのに、人との距離は思ったより早く変わるらしい。
それが良いことなのか、厄介なことなのかは、まだ分からない。
◇
家に帰り着いたのは、昨日より少し遅い時間だった。
玄関を閉めた瞬間、学校の空気がすっと剥がれる感覚がある。自室に入り、制服の上着を脱ぎ、鞄を机の脇へ置く。スマホには事務所の連絡がいくつか来ていた。
今夜は配信ではなく、短めの収録と、先輩ライバーのコラボ配信への通話参加だけ。
学校と比べれば、ずっと得意な領域だ。
機材を立ち上げながら、湊人は今日のことを思い返す。
学食。体育。放課後のプリント運び。購買チャレンジの予告。
すべてが、学校という場所に少しずつ自分を結びつけていく出来事だった。
「……普通になりたいのに」
願いとは裏腹に、隣の席の女子は遠慮なく踏み込んでくるし、クラスメイトは案外気さくに話しかけてくるし、自分自身もそれを嫌だと思い切れない。
それは少し困る。
困るのに、悪くないとも思ってしまう。
配信開始前、共有サーバーに一件だけ通知が入った。
AstraLink全体チャット。新人ライバーの名前が上がっている。話題の主は最近デビューした小毬こはく。今日の配信で緊張しすぎて入りを噛んだらしい。先輩たちが面白がりながらも優しくフォローしている。
湊人はそのログを眺め、少しだけ口元を緩めた。
会ったこともない後輩。けれど同じ事務所で、それぞれ別の時間帯に頑張っている仲間だ。
学校には学校の距離感があり、配信には配信の距離感がある。
その二つを行き来するのが、自分の日常だ。
やがて通話の時間が来る。
マイクを入れた瞬間、声の温度が変わる。
「こんばんは、お疲れさまです。天瀬アルトです」
学校での久瀬湊人とは違う、落ち着いて、柔らかく、人を安心させるための声。
通話の向こうで、先輩ライバーが明るく笑った。
『アルトくん来た! ちょっと聞いてよ、新人ちゃんが今日かわいく事故っててさあ』
『助けてあげてよ王子〜』
「皆さん、すっかり楽しんでいらっしゃいますね。新人さんが泣いていなければいいんですが」
『その返し方が優しいんだよなあ』
『ほらこういうとこ王子』
『リスナーの前でもそれやって』
「今日は先輩方が主役ですから。僕は端で静かにしております」
『絶対静かにしないくせに』
『いやでも空気整うんだよな、アルトくん来ると』
自然と笑いが起きる。
学校では購買一つで固まっていた自分が、こちらでは何の苦もなく言葉を返せる。その差に、少しだけ苦笑したくなる。
けれどそれもまた、自分だ。
通話を終え、明日のスケジュールを確認し、機材の電源を落とす頃には、夜もかなり深くなっていた。
ベッドに腰を下ろした時、ふと思い出すのは、放課後の真白の顔だ。
“家の都合、ね”
あの一言。
きっと彼女は、納得していない。
あまり良くない傾向だと思う。よく見ていて、妙に勘が鋭くて、しかも遠慮がない。隠し事を抱えた人間にとって、かなり相性の悪い相手だ。
なのに、不思議と、そのことが少しだけ楽しみでもある。
「……いや、よくないな」
自分で自分に釘を刺す。
学校では目立たない。余計な関係を増やしすぎない。普通に過ごす。
その方針は変わらない。
変わらないはずなのに、明日の購買チャレンジのことを考えてしまっている時点で、すでに少しだけ計画は揺らいでいた。
隣の席の女の子は、ぜんぜん優しくない。
でも、だからこそ、こちらのペースを簡単には許してくれない。
そんな相手がいる学校生活は、思っていたよりずっと、普通から遠いのかもしれなかった。
鳴海すばるは、自分の観察眼をあまり立派なものだと思ったことがない。 便利だとは思う。 でも、便利な方向がだいぶ偏っている。 配信中に推しの声がいつもより少し低いとか、 コラボ相手に対する距離感がちょっとだけ違うとか、 笑い方のあとに一拍だけ沈黙が入ったとか。 そういう、“普通の人はそこまで見ないだろ”みたいなところばかりを拾ってしまう。 だから学校生活でその能力が役に立つかというと、微妙だった。 テストの傾向を読むとか、 先生の機嫌を察するとか、 そういう一般的な方向へは、そこまで強くない。 なのに今、なぜかその観察眼が、一番ありがたくない形で役に立ち始めている。 校門の外の知らない大人たち。 入れ替わり立ち替わり現れる“学校に似合わない静けさ”。 そして、その人たちがどういう時間帯に、どんな位置で、誰を見るように立っているか。「……なんで覚えてるんだろ」 火曜の夜、自室のベッドに転がりながら、すばるは天井へ向かって呟いた。 答えはわりと分かっている。 好きなものを見る時のクセと、たぶん同じなのだ。 気になる対象がいて、その周辺の変化が日常の一部になると、勝手に目と耳が記録を始める。 それが推しに向く時は楽しい。 でも、学校の外の不審者っぽい大人たちに向く時は、ただただ面倒だ。「オタク能力の使いどころ、間違ってない?」 誰にも聞かれない部屋でそう呟きながら、それでも頭の中ではすでに整理が始まっている。 昨日の男は、火曜の朝は歩道の左。 月曜の黒い車は少し遠め。 教室まで来たスーツ男は、相馬系じゃない。 そして今朝のやつは、通学の
柊坂真白は、違和感に対してわりと執念深い。 別に探偵気質というわけではないし、何でもかんでも白黒つけたいタイプでもない。 でも、毎日の中で妙に引っかかるものがあると、それを“まあいいか”で流すのが苦手だった。 誰かの声色がいつもと違うとか、 提出物の期限を誤魔化している顔をしているとか、 言葉は平然としているのに、目だけが妙に忙しいとか。 そういうのは、見えてしまう。 見えてしまうと、頭の片隅にずっと残る。 だから今の久瀬湊人に対しても、真白の中にはいくつもの引っかかりが並んでいた。 文化祭の日の非常階段。 打ち上げの日に来られなかったこと。 教室まで来たスーツの男。 校門の外を見ている知らない大人たち。 そして、その全部のあとで、それでも学校へ来て、窓際に座って、何事もない顔を作ろうとする久瀬の横顔。 ここまで並べると、もう“なんかある”では済まない。 済ませたくないというより、済まないとしか思えない。 しかも真白にとって一番腹が立つのは、秘密の正体そのものより、異常事態を異常事態として扱わないまま隣の席に座ろうとする、その無茶の方だった。「……ほんと面倒」 朝、駅から学校へ向かう道を歩きながら、真白は小さく呟いた。 問い詰めたいわけじゃない。 何を隠しているのか、今すぐ全部吐けとも思わない。 でも、“何かあっても言わずに一人で何とかしようとする”のだけは、さすがに放っておきたくない。 それが親切心なのか、 責任感なのか、 ただ単に隣の席の人間として気持ちが悪いのか、 そこは自分でもまだよくわからない。 ただ一つわかるのは、前みたいに「知らないから関係ない」で切れなくなっているということだった。
翌日から、校門の外にある“視線”は、妙に現実味を帯びてそこに居座るようになった。 最初は気のせいかと思った。 昨日の夕方、校門の向こうに立っていた、あの黒っぽいコートの男。 家側の人間とも違う。 相馬たちみたいな、洗練された“身内の静けさ”ではない。 もっと乾いた、もっと公的で、だからこそ遠慮のない気配。 だが火曜の朝、登校してすぐにその違和感は気のせいではなくなった。 校門から少し離れた歩道。 通学の流れから一歩だけ外れた位置。 昨日と同じ男ではない。 けれど、似たような立ち方をした別の男がいる。 地味なジャケット。 手にはスマホ。 でも、画面を見ているふりをしながら、意識のほとんどは学校の出入りへ向いている。 そういう視線だ。「……本当にやめてくれ」 久瀬湊人は心の中で小さくそう呟いた。 ただ見ているだけ。 ただ校門の外に立っているだけ。 それだけなのに、妙に空気が冷える。 学校という場所は、本来もっと雑多で、ゆるくて、誰かの視線に一々輪郭を与えないくらいには無防備な場所のはずだ。 なのに、外から“目的を持って見ている目”があるだけで、その無防備さは一瞬で不安定になる。 そして今の湊人には、それが自分絡みである可能性が高いことも分かってしまっている。 家側ではない。 少なくとも相馬たちの動きではない。 だとすると、もっと別の線だ。 それが何より嫌だった。 家側ならまだ、こちらにも言い返す窓口がある。 配信側ならまだ、マネージャーへ相談できる。 だが、正体の分からない“公的な匂い”には、動き方そのものが読みづらい。 しかも最悪なの
月曜の放課後、教室の窓から差し込む光は少しだけやわらかい。 文化祭の熱も、 打ち上げの余韻も、 教室へ入ってきたスーツの男の嫌な気配も、 それぞれがまだ完全には消えていないのに、時間だけはちゃんと前へ進んでいる。 その“前へ進んでしまった感じ”を、久瀬湊人は最近ずっと不思議に思っていた。 もう少し、壊れると思っていたからだ。 文化祭の非常階段。 数秒だけ聞かれた声。 打ち上げに行けなかった夜。 教室の中へ踏み込んできた学校の外の人間。 どれも、本来ならもっと大きく何かを崩してもおかしくなかった。 少なくとも、窓際の空気はもっと気まずくなってもよかったはずだ。 それなのに、完全には壊れなかった。 前と同じではない。 でも、残っている。 しかもその残り方は、以前より少しだけ深い。 誰も正体は知らない。 誰も全部は分かっていない。 それでも、“ここを壊したくない”だけは、もうかなり共有されてしまっている。 その事実が、最近の湊人には一番重くて、一番ありがたかった。 ◇ その日の昼休み、窓際の一角は妙に静かに落ち着いていた。 日野が購買のパンを半分こぼしながら食べ、 すばるが「食べ方終わってる」と笑い、 真白が「机汚すな」と冷たく刺し、 紬希がティッシュを差し出す。 たったそれだけの、なんでもない流れ。 でもその“なんでもなさ”が、今は少し特別だった。 こういう普通を、最近は前よりちゃんと守ろうとする空気がある。 誰か一人が頑張るのではなく、五人全員が少しずつ。「そういえば」 日野がパンを飲み込みながら言う。「来週、写真共有
柊坂真白は、自分が“わからないものをそのままにしておく”のが得意な人間ではないと思っていた。 曖昧な返事は嫌いだし、 来るのか来ないのか分からない予定も嫌いだし、 何かを隠されたまま振り回されるのも、もちろん嫌いだ。 だから本来なら、久瀬湊人みたいな人間とは相性が悪いはずだった。 何か言えない事情がある。 時々急に遠くなる。 でも来たい時だけはちゃんと来たそうな顔をする。 そういう、“全部は見せないくせに、気持ちの一部だけは見えてしまう人間”なんて、いちばん面倒な部類だ。 少し前までの真白なら、そこで切っていたと思う。 面倒だから距離を取る。 わからないものはわからないまま、あっちで勝手にやって、と。 でも今は、そうなっていない。 文化祭の非常階段で、何か外の顔があることを感じた。 打ち上げの日に、来たかったことだけは本当だと知った。 教室へ入ってきたスーツの男で、外側の重さが学校まで食い込んでくることも見た。 そこまで見たあとで、問い詰めたところで何かが楽になるとは思えなかった。 むしろ逆だ。 問い詰めれば、この人はたぶんもっと困った顔をする。 それを見たところで、自分だって気分が悪い。 だから最近の真白は、少しずつ別の方を選び始めている。 聞かなくても隣にいる。 知らないままではないけれど、今は聞かない。 その代わり、倒れそうな顔をしていたら刺すし、無理をしていれば止める。 そういう、半端にやさしいことを、気づけばずっとやっている。「……ほんと、私らしくない」 朝、制服のリボンを整えながら小さく呟く。 でも、らしくないと思いながら、それをやめたいとも思わない。 それがたぶん、
鳴海すばるは、自分が“守る側”の人間だと思ったことはあまりない。 どちらかと言えば、守られるよりは自力でなんとかする方だし、誰かを庇って前へ出るタイプでもない。 空気は読む。 流れも読む。 でもそれは、場を回すためというより、自分が楽しくいるための調整に近い。 だから、文化祭の非常階段で数秒聞いてしまった声のことも、 打ち上げに来られなかった夜の短いメッセージのことも、 教室にスーツの男が入ってきた時の空気の悪さも、 全部まとめてずっと“困るなあ”の側に置いていた。 面倒だ。 気になる。 気になりすぎる。 でも、だからって自分が何かできるわけじゃない。 そう思っていた。 けれど、その認識が少しだけ変わったのは、月曜の放課後のあとだった。 教室まで来たスーツの男。 学校の空気を何も知らないまま、ただ“用件があるから”という顔で久瀬湊人を呼び出した大人。 あの時すばるの中で一番強かったのは、“本人かどうか”への疑いでも、“推しに近い”というざわつきでもなかった。 普通に嫌だった。 教室の空気を壊されるのが。 久瀬が、明らかに嫌そうな顔をしているのが。 みんなの前で、学校の外の重さだけが急に持ち込まれるのが。 それを思い返した時、すばるはようやく気づいた。「……あ」 自室のベッドに転がったまま、天井を見上げる。「私、そっちなのか」 本人かどうかはまだ決めつけたくない。 そこは変わらない。 でも、それとは別に。 何であれ、今しんどそうな久瀬湊人が嫌だ。 その気持ちが、かなりはっきり出てきている。